自由

2017/09/22(金)

振り返るると、8月から週に一度の更新になっていた。
お気に入りのブログのひとつが毎週火曜日に更新されるのだけど、それを読むと、あ、一週間経ってしまった、私も何か書こうというスイッチが入って、それで、どうにかこうにかの週一だった。

 

定期的に目の前に現れるものがあると、やる気スイッチに繋がりやすいのかもしれない。いや、昔も曜日を決めて更新される日記を知っていたけど、その時はふーんとしな思わなかったから、結局、好きなものにしか影響は受けないのかもしれない。

 

好きといえば、「好きなことを見つけて、楽しそうにやっている人」を見る(話を聴く、ブログを読む)のが好きだ。好きな人が好きなことをしていたら、そのことに興味を持つし、総じて「好き」という感情は、たとえ他人のものでも、いろいろといい方向へ繋がって行きやすい。何が育つか分からない、小さな小さな種のようなものかもしれない。(恋愛話はまた別だけど)

 

何かをやる自由もあれば、やらない自由もある。どちらを選ぶのも「自由」であることは、なんて恵まれたことなんだろうと、ふっと思ったりする。こうして書くも書かないも選べる幸せ。今日は書く方の自由を選んだ。

 


役割を演じる

2017/09/20(水)

強い雨や風に煽られ、葉がチリチリに捩れて生彩をなくしたアサガオに、新たに咲いた花が不似合いなみずみずしさを添えている。台風が過ぎた数日の暑さも去り、今日は一段と涼しい。朝の一通りの家事を終えて新聞を開いたが、知らないうちにテーブルに突っ伏して眠り込んでいた。はっと目が覚めて、時計を見る。今がいつで何をすべき時だったかと、脳内で記憶を早回しして焦るのも久しぶりのことだと思った。

 

昨日はある研究会の席にいて、協力してくれている著名な先生による中間発表を拝聴した。その時に途中でうっすらと眠くなってしまったことも思い出される。3時間近く座って学問的な話を聴くことなぞ私の日常にはないわけで、疲れもそこからだろう。

 

それが「何」とは詳しくは明かさないスタンスで書くけれど、趣味としてやっているあることについて、皆が漠然と感じていた「よいこと」が、そもそもどういう作用によるものなのかを「定形」に落とし込むための研究だ。それによって「よいこと」に説得力が加わるのはもちろん、目に見える指標ができれば、別の定形づくりにも役立つ。さらには、活動を公に推し進めやすくなるというわけだ。

 

私個人としては、そこまでの探究心はない。「よいこと」は楽しさのオマケであり、蘊蓄を聞いて「へー、そうなんだー、なるほどねー」と関心していればよかったはずなのだ。なのに、末席とは言え、どうしてここにいるんだろうと思うと、事の成り行きにぼんやりしてしまう。もちろん、自分がイエスと言ったからではあるけど、一歩だけ出したつもりのその一段目に、実はいろんなものがあったと気づいておたおたしているのだ。それでも、興味はあるので表面的にはすごく意欲的な顔をしてしまうから、我ながらややこしい。

 

会が終わり、まだ残って話をしている先生方をよそに、借りていた会議室の机やら椅子やらを片し始めた。身体を動かしながら、私にふさわしい仕事はまさにこれなのだと生き生きしてくる。カートに椅子を重ね、机をたたみ、率先して倉庫へ運ぶ。つくづく私は「裏方」で役立つ方が好きなんだと思う。

 

……と、だから「趣味は趣味として楽しむだけの方がよかった」とまとめるつもりだったのだが、ここまで書いてはたと気づいた。
趣味としてそれを楽しむだけの人は、正に「表方」の人なんだ。表舞台で演じるために練習をする、そこまでの趣味。それが少し物足りなくなって、もうひとつ演じる役割を増やしたんだと思えば、全部が趣味、で、いいのかもしれない。与えられる役割が選べなかったり、自分の好きなようにできないのはどちらも同じだ。

 

面倒になるのか、支えになるのか、先のことは分からない。

ただこの「先のことは」って言うときの「先のこと」は、若い頃なら大抵「ずっと先」だったのに、年を取るとすぐ来るから困るのよね。


出かける時は忘れずに

2017/09/13(水)

出かける時、以前は必ずバッグに文庫本を入れていた。

 

電車に乗るにも、病院に行くにも、本を持っていないと不安だった。読みかけで気になる本を持っていくこともあれば、その時々、その場に合った読みやすい本(いつでも閉じられる短編集か、時間を忘れるストーリーか、など)を選んだりしていた。

 

そのうち、少しでもバッグを軽くしたいと思うようになって、「読みたい本」よりも重量のより少ない本を選ぶようになった。迷えばキッチンスケールで重さを計ったりして、1グラムでも軽い方の文庫本をバッグに入れた。

 

最後に持ち歩いていた本はなんだっただろう。
今は、スマホのkindleアプリで読めるものを読むだけだ。もう、バッグの中に本はない。

 

それが当たり前になった最近、電車の中で本を読んでいる人を見ると、何かよく分からない憧れを感じることに気づいた。電子書籍だって読書には変わらないのに、周りがスマホを見ている中、紙の本を読んでいる人がことさら素敵に見える。きっとただの暇つぶしではない、何かとてつもなく面白い本、あるいは身になる本を読んでいるのだろうと思わされる。そんな本に出会えた人が羨ましい。

 

電車の中だけではない。劇場や映画館でも、上演前の薄暗い座席で本を読んでいる人に目が留まる。そういえば、先日客席に見かけた三谷幸喜さんは、ハードカバーの分厚い本を開いていた。それはまあ、人を寄せ付けない方便であったかもしれないにしても、劇場と本を読む人の親和性は高いと感じる。(私は、暗いところでは読めないけれども)

 

昨日はミュージカルの幕間の休憩時間に、トイレの列に並びながら本を読んでいる人がいた。私の頭には聴き覚えたばかりのメロディーが鳴り続けているというのに、第一幕の余韻に浸ることなく本の世界に行く人。それほど面白い本の正体が知りたいと思った。

 

いつだったかは、久しぶりに電車の中で少年マンガ雑誌を読んでいる男性を見た。少し離れたところからでもその絵柄がはっきりと見えて、あんなに文字も絵も大きかったっけと懐かしくさえあった。きっと気になる連載があったのだろう。短い時間だけ読んで閉じていた。またある時は、図書館の分類シールの貼られた小説を読んでいる女性を見た。そのどちらも、少し前までは珍しくもなんともない光景だったのに、「(重いし嵩張るのに)持ち歩いてスキマ時間にも読まずにいられないのは、きっとものすごく面白い本であるからに違いない」という偏った尺度で考えている自分が可笑しくなる。

 

いつから私はこんなにも「重さ」やら「嵩張り」を毛嫌いするようになったのか。

 

そうだ、最後に持ち歩いた文庫本は『アルケミストー夢を旅した少年』(パウロ・コエーリョ)だった。
薄くて、軽くて。