そういう人も必要

2019/ 02/ 13 (水)

 頼まれてペンキを塗っている夢を見た。古いアパートのドアや丸い柱を真っ赤に塗っていた。途中でペンキが足りなくなると、知り合いが「俺が買ってきた、こっちの色の方がいいよ」と、パステル調のグレーっぽいペンキをくれたので、まあ、この色もいいかなと思ってその色に塗り替えている途中、ちょっと席を外したら、戻った時にはすっかりすべてが塗り終わっていたという夢。

 

 ひとりで塗ったら、きっと終わりが見えない。ちょっとした失敗が気になって、何度も何度も塗り直してしまうだろう。でも誰かがやってくれたのなら、多少のムラは「任せちゃったんだから」と諦められる。完璧にペイントできる自分でありたいけれど、結果として完璧に仕上がらなければ我慢できないというわけじゃない。

 

 頼んだ方としても、誰が塗っても塗り終わればいいのだ。始めからやりたがらない人もいれば、不器用だからと遠慮する人もあるだろうけれど……と考えているうちに、それより、そもそも「最初から頼まれない人」がいるということに気づいた。

 

「あの人はもっと高度なことができる人だから、とてもペンキ塗りなんか頼めないわ」と。

 

(どうして「ペンキ塗り」が出てきたのかわからないけど)

 

 私の周りには、60歳以上の女性が多い。そして、それぞれが一目置かれるような経歴や資格を持っていたりする。改めて大学に通いながらの人もいる。そんな中にいる私、

「あれ? もしかして私って、一番使いやすい?」

 

 だからといって、べつに劣等感なんてないのだけれど、あー、そっかーと、妙に納得してしまった。生真面目で几帳面でプライドも高すぎないのが取り柄。そして比較的には若手で動ける。いいよいいよ、雑用の達人を目指したるぜ。

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それはキセル

2019/ 02/ 07 (木)

 電車がホームに入り、ドアが開く。読んでいた本から顔を上げると、ドアの上には降りるべき駅名が表示され、チッカチッカと瞬いている。乗客の乗り降りは終わり、動きはない。私は車両の中程に座っていたから、ドアまでは人が何人か立っている。

 

 降りなきゃ。でも、あーーーーっどうしようっ、と一瞬考えてから、膝の上の荷物を抱えてガバっと立ち上がり、「スミマセン降りますスミマセン」と、腰をかがめてドタバタとドアに向かい、無事にホームに降り立った。

 

 昔なら、しれーっと次の駅まで乗って行って、何事もなかったように戻って来くるところだ。夜、娘に話してみると、やはり彼女なら絶対に次の駅まで乗って、戻ると言った。「だって慌てて降りるの格好悪いじゃない?」と。

 

 そうなのそうなの。思い返してみても、ひとりだけバタバタあたふたと、いかにもオバサンぽい行動だった。そもそも、降りる駅に気づかないところからしていかん。

 

 とはいえ、人からどう思われようと気にせずに、降りるべき駅で降りた私エライ!

 立派なオバサンになったものだ。

 

 これがまたもう少し年を取ったら、「あらあら、仕方がないから次の駅まで行って戻ってきましょうかね」を、選択するようになるに違いない。そうして思うんだろう。昔はガバっと立ち上がって、ササッと下りられたのにねぇと。

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『ナイキ』

2019/ 02/ 05 (火)

※フィクションです

 

「近くにナイキがいる」と、僕は妹にLINEした。すぐに「マジか!」と、キャラクター付きのスタンプが返ってきた。

 

 駅を出る長いエスカレーターを降りていた。数段下にいる男が後ろ向きになって、ひとつ上の段にいる女の胸に顔を近づけている。唇を尖らせ、いやいやをするように鼻先を寄せている。「きもちわりーな」と思ったそのとき、女の方が少し角度を変え、その腕の中に赤ん坊がいるのが見えた。そうか、赤ん坊をあやしていたのかと納得したのもつかの間。その母親の横顔を見て心臓がはねた。会いたくなさNO.1のナイキだったのだ。

 

「しかも、赤ん坊がいる。旦那といる」と続けて送ると、 妹は「マジか!」「マジか!」とふたつ、それぞれ違うスタンプで応じた。

 

 エスカレーターはじりじりと進む。ナイキに気づかれずにいるにはじっとしているしかない。でも、まあ、よかったよ。もう結婚して子供もいるんだなと、僕はほっとしていた。ナイキの幸せを喜んだわけではない。「よかった」のは僕自身だ。

 

 ナイキは、僕が大学卒業までのほんの数ヶ月バイトしていたコーヒー屋の店員だった。結構美人だし、親切だし、仕事もできる人だったのだが、人に対する時の物理的距離が異様に近かった。「斉藤くん、伝票はね……」と教えてくれる時も、まるで内緒話をするかのように顔が近い。誰に対してもそんな感じだったけれど、僕はどうしても慣れなかった。

 

「斉藤くんて、アキルって名前なんだね」
 ある日シフト表を見たナイキが言った。
「秋を、留めるってこと?」
 ぐっと近くから見上げてくるから僕は一歩下がる。
「そうっす。ちなみに妹は春を留めます」
「へー、面白い」
 その感想には慣れていた。春と秋が好きで、夏と冬が苦手な母親が付けた名前だ。

 

 それからナイキは僕を「アキルくん」と呼ぶようになった。その呼び方は「アヒルくん」みたいで昔から嫌いだったが、なにより、ナイキが僕をそう呼ぶことで「あの二人はデキてる」という誤解が広がるのが面倒くさかった。おまけに、ナイキはそう思われることを喜んでいた。

 

 もしかしたらと自惚れていたら案の定、「つきあって」と数センチの距離で告られた。僕は思わず50センチ後ずさり、正直にごめんなさいをしたのだが、それで終わったつもりでいたら、一週間後にまた、「どうしてもつきあってほしいの」と詰め寄られた。

 

 面倒になった僕はバイトをやめた。それでも、その後も街で何度もナイキと遭遇した。つけられてる? いやいや、まさか……と思っているうちにやってきた2月14日。自分の部屋で目を覚ましたら、目の前に、ナイキがいた。

 

「ど、ど、どこから!」と焦る僕に「玄関から」としれっと答えて、ナイキはいかにもなチョコレートの包をベッドの上に差し出した。

 

 実家だぞ? 母さんが入れたのか? ナイキのことだ、ずいずい距離を詰めてうまいこと言って上がり込んだか? 僕は慌てて服をかき集め、トイレに篭って着替えると、ナイキの背中を押すようにして家を出た。

 

 腹が立っていた。めちゃくちゃ腹が立っていた。恥ずかしさとか驚きとか恐怖とか、いろんな感情がごちゃまぜになった怒りだった。そのまま住宅地を抜け、堤防をのぼって河原に出たところで僕はナイキにひどいことを言った。あんまりひどくて思い出したくないようなひどいことを言った。それでもナイキが距離を詰めるから、後ろに下がる代わりに思い切り両腕を突き出した。ナイキは簡単に吹っ飛んで尻もちをついた。僕は走って逃げた。

 

 あとで聞くと、ナイキを家に入れたのは事情を知らない妹のハルだった。「ごめん。変だとは思ったんだよ。だって、彼氏の実家に来るのに、あんな汚いナイキのスニーカーだもん」「そこか?」「靴は大事だよ」そこから、「ナイキ」という符丁で呼ぶようになった。「あれは立派なストーカーだよ。ナイキのストーカー。アニキ、刺されないようにしなよ」

 

 ハルの言葉を真に受けたわけではないけれど、その後も、僕はどこかでナイキに会うんじゃないかとビクビクしていた。大学を卒業し、研修で地元から離れ、偶然に会う心配が薄れてからも、思い出すと苦いものがこみ上げたりしていた。

 

 そうか。僕が暴力を後悔したり無駄にヒヤヒヤしている間に、ナイキはさっさと彼氏を見つけて結婚して、子供まで産んでたってことか。やれやれだな。

 

 やっとエレベーターが下についた。先に降りたナイキたちは右の方へ曲がった。僕はささっと左のドラッグストアの方へ曲がる。そのとき、「あ、待って、パパ」と言うナイキの声がした。「ほら、アキルのおむつ買わなきゃ! ね、忘れちゃだめよねぇ、アキルくん」

 

 アキルくんて。
 マジか。マジかマジかマジか!

 

 ハルに言ったらどんなスタンプが返ってくるんだろう。僕の「マジか!」は千個でも足らない。

 なんとか2000文字に収まったはず。収めなくたっていいんだけど、決めとかないといくらでも長くなるからね。
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