ヒグラシと爆音

2018/ 08/ 20 (月)

 急に涼しくなってきた。そうすると、なんだか夏が終わってしまうのが惜しいような気がする。暑さに負けじと必死に生きていたのが、急に気が抜けてしまう感じだ。でも、まだこのままで終わる夏ではなかろう。またあの暑さがぶり返せば、「もう勘弁してよ」などと勝手なことを私は言うに決まっている。

 昨日の夕方、娘とヒグラシの声を探しに行った。自宅の回りではミンミンゼミとアブラゼミの声しかしないので、高い木の繁っていそうな場所を探して車を走らせた(運転してくれたのは夫)。ここらはどうだろうと、車の窓を開けていると、「カナカナカナ……」とかすかに聞こえた気がする。走っているのですぐに過ぎてしまう。そうするともう、ほとんど高い木のない場所に出てしまうから、適当なところでUターンして同じ場所に戻ってもらったけれど、車を停める場所がない。公園の駐車場にと思ったけれど、もう閉園近くて入れない。行ったり来たりして仕方なく、霊園の門の前に入れさせてもらい、娘とふたり、件の場所まで歩いて道路を戻った。

 車の往来は激しい。歩道もない。道路脇には車から投げ捨てられたのであろうゴミが散乱している。が、その向こうには暗く木々の繁った場所がある。しばらく行くと「聞こえた!」と娘が言った。さすが20代の耳だ。車の途絶えた時によーく耳を澄ますと、ツクツクボウシの向こうから「カナカナカナ……」が私にも聞こえた。思わずやったねと、娘と頷きあう。なにせ、ヒグラシの声を聞くのは去年の夏から叶えられずにいた宿題だったのだ。

 こんな道路沿いでも、ヒグラシはヒグラシだ。それだけで、まるで一瞬、遠い山まで来たような感動を覚える。なんとも安上がりな親子である。それを打ち砕くように、バイクが一台けたたましい音を立てて通り過ぎた。しばらくすると、今度は反対側から同じような爆音を立ててバイクが来た。そしてしばらくするとまた一台。「全部、同じバイクじゃない?」と娘が言う。変な女が二人いると思って、バイクが行ったり来たりしたのかもしれない。あるいは、バイクの人にもヒグラシの声が聞こえたんだろうか? あの爆音の中で? 

 

 立ち止まっているには、確かに大変不自然な場所だった。名残惜しかったけれど、身の危険を感じたので車に戻ることにした。戻る時は左側なので、車が後ろからビュンビュン来てさらに怖い。避暑地の幻想は本当の本当に一瞬だった。

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おばあちゃんち

2018/ 08/ 15 (水)

 始発駅で停まっていた電車に乗ると、先に乗って座っていた少女の不安そうな目と目が合った。案の定、座席を立って来て「すみません」と声をかけてくる。「あの、この電車は、◯◯に行きますか?」

 乗り慣れた路線ではないから、他の駅の名前を言われたら分からなかったかもしれない。でも◯◯なら、私も降りる駅だから確実だ。「はい、行きますよ」と答えると、言葉にはなっていない安堵の声と一緒に、ほっとしたような笑顔を見せて少女はまた席に腰を下ろした。

 立っている人越しに少女の方を伺うと、真剣な顔で時々窓の外を見ている。ふたつ駅を過ぎたところで「次は◯◯、次は◯◯です」というアナウンスが入った。気がついたかな? と少女の方を見ると、少女も私を見ていて、お互いに頷きあう。なんだか、ちょっとした同志みたいだ。

 同志は電車を降りるとスタスタと前を行く。改札を出るとおばあちゃんらしき人が待っていて、「よく来たねぇ」と目を細め、両腕に少女を迎え入れた。どこから乗って来て今の電車に乗り換えたのか分からないけれど、初めてひとりでおばあちゃんの住む駅まで来たのにちがいない。

 古き良き夏休みの光景だなあ……と思ったのは、その一連のできごとに、携帯だとかスマホだとかが登場しなかったからかもしれない。

 彼女がスマホで乗換案内の画面を私に見せて「この電車、これで合ってますか?」と聞き、合っていると分かればその後はイヤホンで音楽を聞いていて、アナウンスに驚いて電車を降りると早速スマホを耳にかざし、改札の向こうではおばあちゃんが携帯片手に孫を呼んでいて、合流したらすぐにツーショットを撮ってLINEで母親に報告……ということだって十分にありえる。その方が親もおばあちゃんもあまり心配しないで済むのが現代だ。

 女の子とおばあちゃんは並んで、私とは反対の出口に向かった。外はすごい日差しだ。少女はお喋りをしながらゆっくりとおばあちゃんちまで歩き、家に上がってから「無事に着いたよー」とお母さんに電話をするんだろうか。その目線の先の台所では、おばあちゃんがコップに氷を入れて麦茶を注いでいる。「うんうん、全然平気。迷わなかったよ。今、おばあちゃんに代わるね」

 そんな私の想像の中で少女が手にしているのは、レースの敷物の上に置かれた黒電話の、重たい受話器だ。

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ひとりやすみ

2018/ 08/ 13 (月)

 一週間は特に何も予定がないと書いた通り、嘘みたいに暇な時間ができた。夫も娘も仕事だ。家でひとり、家事をいつもより少しだけ丁寧にする以外は、海外ドラマを観たり本を読んだりピアノの練習をしたら、他ににさしてやりたいこともない。

お盆休みと言えば昔は憂鬱の代名詞みたいなものだった。夫の実家に子どもたちを連れて行って泊まるのが恒例で、それがとにかく面倒だった。決して仲が悪かったわけでもなんでもないけれど、それでも気は遣うし、普段通りというわけにはいかない。日帰りが出来ない距離でもないのにとか長男一家は来ないのにとか、とにかく、若い頃の私は小さなことに苛立っていた。自分のやりたいことは全て自宅にあった。好きなことが出来ない状態で、ただそこに居なければならないのが苦痛だった。

とはいえ、子供たちがある程度大きくなって、義理の両親も年を取ったり病気をしたりして、いつの間にか私の気持ちも変わった。もっと早くわがままから脱却できていたら、もっと親孝行もできたし、私自身も楽だったのにと思う。今はもう、舅も姑も亡くなり、実家も空き家状態になって、何もかもが懐かしいばかりだ。子供が小さかった頃のことは皆、振り返れば本当に一瞬の輝きみたいなものだ。

そうしていつの間にか年月は経ち、こうして家にひとりで居られるお盆休みがやってきたわけで、
どうよ、過去の私、
最高でしょ?

でもね、
あなたのやりたかったことはもうここにもないんだよ。

パソコンを開いたって、たいして書きたいこともない。
あの頃、「冷静と情熱のあいだ」っていう小説があったけど、ここはもう、冷静と情熱の外側だ。

のんびりと好きな本を読んで、長々とピアノの練習ができて、何も不満はないけれど、焦がれるほどしたいことがあるのに出来ない不満を抱えていた頃の方が、幸せの密度は濃かったと今なら分かる。

「時間があったらしたいこと」「時間があったらできること」
心から求めるそういうものがあるということは、できないことにジリジリすることも含めて、しあわせなんだ。 


復活させてみたりして
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