認められたいけれど目立ちたくはない

2017/07/23(日)

試験や数字でそのレベルを客観的に表す手段がないタイプの趣味の、狭い狭い狭い世界での話。年数を重ねてだんだんと上から認めてもらえるようになり、それにつれて立ち位置が変わってきた。あと何年かしたら私はあの位置にいて、あんなことやこんなことをしているのかも……という道筋が、気づいたらはっきりと目の前に見えるようになっている。思いつきの選択から始めたのに、それによって全く望んだこともなければ想像もしなかった将来像が見えてくるようになるなんて、人生ってわかんないものだ。

もちろん、必ずそうなると決まっているわけではない。組織も近い将来に転換期を迎えるし、先方の利益のために敷かれたレールに、まんまと乗せられそうになっているだけかもしれない。趣味は趣味として漠然と楽しんでいるだけの方が断然楽なんだから、いつ降りたっていいのだと、片足は自由にしておきたい。

もともと私の中には、何事においても、ちょっと褒められていい気分になると調子に乗って、思いがけない失敗をやらかしたり非難されるんじゃないかという恐れが、常にある。(なぜだろう。過去に何かあったからかもしれない)

上には上のすごい人がいる。それは素直に認められるのだけど、私程度の技量においては評価も曖昧だ。心の狭い私なぞ「なぜあの人の方が認められるのか?」と疑問に思うことだってある。そう考えると私自身が「なぜあの人が?」と言われる可能性だってあると思わずにはいられないわけで、そういう目もまた怖い。

結局、どうすれば縮こまらずに堂々としていられるかというと、「出すぎた杭だと叩かれないように用心するより、出ていて役に立つ杭になる努力をすればいい」ということなんだろうなぁ。
自信がないまま、謙虚な振りしてたって仕方がない。
 


段のない生活

2017/07/19(水)

三連休の初日に法事があり、夏の陽の差す混み合う道を、車で運ばれた。高速道の壁にはオレンジ色のノウゼンカズラが揺れていて、いつの日にか思い出すいつかの夏が今、またひとつ脳裏に焼き付けられているんだなとぼんやり思う。

 

その晩は実家に泊まった。翌日、母がある趣味の戦いに武器を携えて早々に出かけたので、家事のあれこれを引き受けた。特に、洗濯。衣類のあと、自分たちの使ったシーツと枕カバーを洗う。それを見た父が、自分のシーツや枕カバーからベッドマットや布団カバーまで下ろしてきたので、次々と洗う。

 

まあ、洗うのは洗濯機だからなんでもない。問題は干す方だった。二階のベランダの物干しは馬鹿に高くなっていて、精一杯に背伸びをしないと竿を手元に下ろせない。そこに、シーツやベッドパットを何枚も掛けて広げるだけで一苦労だ。乾燥機付きの洗濯機ならこんなことはしないのにと思いながらも、久々に大量の洗濯物を見上げる気分は、悪くなかった。

 

ところがお天気は、暑いばかりで期待したほどパーンとは晴れない。風もあまりない。たくさん洗ったはいいけれど、洗濯物の乾きが心配だ。それで、裏返したり位置を変えたりと面倒をみるために、何度も二階に上がってベランダに出るを繰り返した。

 

階段はカギ型のゆるやかな作りなので、上り降りがきついということはない。ただ、何度も通ると、そこにあるシールが気になり始めた。途中の踊り場にある古い棚に斜めに貼られた、1センチくらいの「片目」の絵のシールだ。ずーっと昔の子供の頃に、たぶん私自身が貼ったものだ。ちょっと爪で引っ掻けば剥がれそうな小さなシールなのに、なぜ貼ったままだったんだろう。

 

今まで何回も目にしたはずのその「目」が、階段を上るたび、妙に私を見ているような気がした。高い小窓からは蝉の声が降ってきて、「目」は、実家に居た夏の様々なシーンを思い出させる。シールが劣化したように私も劣化したけれど、剥がれずに踏ん張らねばなんてことを、思いながら踊り場を過ぎてまた階段を上がった。

 

次の日、自宅で眼が覚めると頭が痛くて身体も重かった。まさに、夏バテだ。なんとか起きて立ち上がると、ふくらはぎが張っていることに気づいた。まさかまさか、階段のせい? あれくらいで張ってしまうもの?

 

普段どれだけ楽をしているかということが、身に沁みて分かってしまった。マンションの部屋まではエレベーターだし、室内に階段はない。乾燥も洗濯機や浴室でできるから、背伸びしてシーツを外に干すこともしない。どこもかしこもバリヤフリーで、それに慣れてしまったせいか、昔はなんでもなかった実家の和室の入り口で躓いたことも思い出される。

 

段のない暮らしは安全だ。でも、元気なうちから段差のない生活に慣れてしまって、昔は平気だった段にさえ躓くようじゃ、本末転倒だ。日に何度も階段を昇り降りしたり、背伸びをして手を伸ばしたり、ちょっとした段を跨いだり、毎日の何気ない動作の積み重ねが体力を保つんだろう。そういうものが私には恐ろしく足りていないんだと、実家で実感。


触れなば飛ばん

2017/07/13(木)

注釈が必要な言葉が出て来る本は、ご存知のように、本文の一部に番号が振ってあり、巻末に注釈一覧がある。電子書籍もそれは同じで、注釈の部分のリンクをタッチするとその詳細が書かれた部分に飛ぶ。そうして「本文に戻る」をタッチすればまた、読んでいた場所に戻ってくることができる。ワンタッチで飛べる点は、紙の本よりも便利かもしれない。

 

ただ、私の場合はどちらにしても、よほど気になった(知りたかった)時以外は、いちいち注釈を見ないで済ませてしまう。読んでいるリズムが崩れるのが嫌だし、まあ、分からないままでも特に問題ないことが多いからだ。(知識欲が薄いとも言う)

 

ところで先日、kindleで電子書籍を読んでいたら、普通にページを捲ったつもりだったのに、いきなり注釈のページに飛んでしまった。どこか、うっかり触ってしまったんだろう。慌ててまたホームページに戻ったりなどしてしまったらもう、今までどこを読んでいたのか分からなくなってしまった。

 

こういう時に紙の本なら、パラパラっとページを繰るだけで、どこを読んでいたのか、案外すぐに見つけ出すことができる。なにより、読み終えた分量や、残っていたページの厚みを手が覚えているから、だいたいの位置が分かる。でも、電子書籍はそれができない。位置情報はページごとに小さく数値で記載されているけれど、そんなのいちいち見て覚えてはいない。ページも一枚ずつ捲っていくしかなく、とてもパラパラっとはいかない。

 

仕方なく、適当な数値を入れてポンと移動してみたが、そのページは随分と前に読んだところだった。そこでもう一度、さっきより多目の数字を入れて移動すると、運良く最近読んだ場面が出てきた。そこからは、面倒だけど1ページずつタッタッタッタッと、タッチしていく。

 

そうやってなんとか、最後に読んでいた覚えのあるページに辿り着いた。

ページの下部には、左端に「本を読み終わるまで45分」、右端に「87%」(87%読み終えた)という表示がある。


ああ、あと少しで終わりなんだな。

ほっとしながら、次のページを捲った。


そうしたら、なんとまた、注釈に飛ぶではないか。いや、飛んだんじゃない。次のページから、「注釈」が始まっているのだ。

 

ええー? 話はここで終わっていたの?!

 

残りの13%は「注釈」と「あとがき」で、それを「読み終わるまで45分」ということだ。


もちろん、45分もかけて読まなかったけどね。