人違い? 聞き違い?

2020/ 09/ 14 (月)

 娘が「幼児科」の音楽教室のに通っていた頃からお世話になっている楽器店がある。大きなショッピングモールの中にあって、場所も何度か移動したし、従業員も何度も入れ替わっている。ここ数年は入り口近くにまずピアノの売り場があり、その横に楽譜の売り場、奥が教室という作りでビルの最上階にある。

 

 買い物で行ったついでに、たまにその店に寄る。遠くからピアノを眺めたり、楽譜を見たり買ったりする。本当はもっと近くでピアノをいろいろ見たいし触りたいのだが、勝手に音を出すことは遠慮しなければならないし、試弾を申し出て弾いてみるのは恥ずかしいからしない。

 

 先日も、買い物をしたマイバッグを腕に下げた格好で、楽譜を見ていた。すると横から、「あ、#$&%こんにちは!」とにこやかに声をかけられた。顔を上げると顔なじみの店員さんだった。ピアノ売り場の男性で、以前に一度、案内してくれたAさんだ。試弾は恥ずかしいという私に、いろいろなピアノをその人自身が弾いてくれて、音の違いを聞かせてくれた人だ。

 

「こんにちは」と返しながら、ん? 「#$&%」ってところが「先生」って聞こえた気がするけど、人違い? それとも私の聞き間違い? でもまあ、ただの挨拶だから大きな問題ではない。人違いにしたって、挨拶を返す時には正面から顔を見たから、マスクをしているとはいえ、Aさんも間違いに気づいただろう。いやいや、お互いに気まずいものですなー。気にしなくていいですよー。忘れましょうねー。

 

 なーんて思いながら、またしばらく楽譜を見ていたらAさんがまたやってきて、「#$&%、探している楽譜があったら見ますので、おっしゃってくださいね」と言う。「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」と答えつつ、私は再び「んん?」となる。やっぱり「先生」って言ったよね。でもAさんはもう離れて行ったし、わざわざ追って行って「私、先生じゃないですよ」と訂正するのもなんだかおかしなもの。

 

 私も昔エレクトーンを教えていたころには自分で生徒の楽譜を大きな店に買いに行っていたから、まあ、そういう外部の「先生」が楽譜を見に来ることも多いのだろう。ましてや私に見覚えがあるとなれば、Aさんの勘違いも分からないでもない。もしかしたら、顔や背格好が似ている「先生」がいるのかもしれない。マスクしているからよくわからないのだろう。それに最近、髪型を変えたし……。

 

 困ったのは、それからその楽器店に行ってAさんを見かけるとなんだか気まずいことだ。

 

 いや、なんで私が気まずくならなきゃいけないのだ? 

 

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かすみ目でラララ

2020/ 09/ 10 (木)

 事務仕事のある日だったが、お休みをもらった。昨日のうちにそう宣言してきた私、ありがとう。疲れて眠くてたまらない。耳鳴りもする。でも、せっかくのオフだからブログ書かないとまた間があいちまうとか考えて入力画面を開いてしまった。文字が少し霞んで見える。

 

 先日、ある教材の撮影があった。なんで私はこんなことまでやってるのかなーと思ったとたんに間違えてしまったりしながらも、概ね楽しい時間だった。何より、マスクをしないで思い切り声を出せたのが久しぶりで爽快だった。私であって私じゃない時間? 若い頃なら自分の映りが気になっただろうけれども、今はもう、教材として機能してくれればいいやと思う。これは立派なおばさんになったということだろうか。いや、なんでもそれで済ますのもどうかな。

 以前は、例えば民話の中の田舎の小僧っ子の役をやっても、「それじゃインテリのお坊ちゃんだ」と言われたりした。「単なる音読」の域を脱するのにはしばらくかかったのだ。今は割と、何を演るにも恥ずかしさはない。「私」が私の声をコントロールできていると感じることができる。

 

 一方で、ピアノの方はいつまでも殻を脱せない。まあ、ピアノは私とは別の物体だけど、まず「私」が「私の指」をコントロールしきれない。未熟な演奏だ。(だから絶対に人前で弾きたくない) 楽譜の通りに弾くだけなら、それこそ「単なる音読」と変わらないのだ。

 

 朗読には向いていたけれどピアノは向いていないということなんだろうか? 子供の頃に、国語の教科書の音読が大好きだった私と、半分いやいやながらエレクトーンを習っていた私がいたのを思い出す。そこから違ってたのかもしれない。

 ショパンのバラード一番がちょっと長いので、もしかしたら来年の今頃になってもまだ、どうたらこうたら言っているんじゃないかという気がする。いや、言っていればいい方で、途中までやって諦めている可能性もある。まあ、でも、人生わからないからね。諦めずに続けていたらどこかでドワッと開眼して、「ピアノは私だ!」って、なるかもしれないかもしれない。

 

 80歳になってるかもだけど。

 

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遅すぎたスイカ

2020/ 09/ 02 (水)

 9月になってガラッと気候が変わった。日差しはそれほどでもなく、時々シャララーっと雨が降る。

 

 帰りに寄ったスーパーの片隅に、カットされたスイカが並んでいた。そういえばまだ今年はスイカを食べていない。美味しいか美味しくないかは置いておいて、とりあえず一度くらいは食べておこうかなと、カゴに入れた。たくさん並んでいるときには買わないのに、そろそろなくなるかと思うと欲しくなる。

 

 スイカの終わりは季節で決まっているけれど、当たり前のように更新されていたブログが突然終わるのは予想がつかない。予告があったのかどうかも分からないまま、行ってみて終わっていることを知るときの「あ……」という感じは、ガクッと小さな段差に躓く夢と似ている。

 

 毎日更新されるブログももちろんいいのだが、たまーに更新されるブログは(いつも言うのだが)ご褒美みたいな感じだ。今日もまだかなーと思いつつ開いたら更新されていて、「お…!」となる。あの瞬間が、なんともいい。毎日だったら毎日そう思うかというと、正直言ってそこはちょっと怪しい。毎日更新されるブログの良さと、たまにの良さは、それぞれに違う。

 

 書きたいことがよくわからなくなってきたけれど、思い出しついでに……

 

 もう20年近くも前のことだけど、「一杯飲み屋」のようなホームページ(その頃はブログという型はなかった)を作りたいんだとおっしゃっていた人がいた。いつもそこにあって、お客を待っている女将さんのような立ち位置だ。お酒の上のひとり語り? ……あ、思い出した。『おいで』というタイトルだった。今はもう70歳になっておられるだろうか。

 

 一方で私は、どちらかといえば「喫茶店」のようなサイトを作りたかった。私の書くものはBGMやコーヒーみたいなもので、お客さん同士がそこで勝手に盛り上がってくれれば楽しかった。当時はBBS(掲示板)がつきものだったからでもある。個人的なコメントのやりとりよりも、もう少しカジュアルだった。

 

 ……で、今日は何が書きたかったかと言うと結局、

「やっと、今年最初のスイカを食べる」という、いやもう、単にそれだけなのだ。

 

 でも、私が何をするとかしたということを知ってもらいたいわけではない。今これを読んだ方がそれぞれの今年のスイカや、去年のスイカや、スイカにまつわるエトセトラを思い出してくれたらいいなーと、ただ思っている。

 

 掲示板があって、そこでスイカ大喜利が始まったら楽しいのだけど、まあ、もう、そういう時代ではないのがちょっと寂しいね。

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