愛でる人

2018/ 05/ 23 (水)

 石の塀の脇に佇んで、その家の敷地の内から外に向かって溢れ咲いたバラの花に、手を触れている人がいた。小ぶりなリュックを背負った、地味な初老の男性だった。咲き開いた花の部分を持ち上げるようにして覗き込んだり、また別の花を手のひらに乗せてみたりして、間近に眺めている。と思うと、その家の高い窓を伺うような素振りもする。

 

 バラの手入れをしているにしては、素手だし、鋏も何も持っていない。バラに付く虫を探しているようでもない。香りを嗅いでいる様子もない。背中のリュックからして、どう見ても散歩の途中だろう。

 花泥棒? 

 いや、この家の持ち主がちょうど散歩から帰ってきたところで、急にバラの世話を思い立ったのだと、言えないこともない。まだ手折ってもいないのだし、疑ってかかるのはよくない。よくないぞ。

 

 こちらから、「きれいに咲いていますね」と気軽に声をかけてみたらどうだろう、などと思いながらも黙って通り過ぎた。少し離れてから気になって振り向いたが、その人はまだピンク色のバラの中だった。

 

 男性がその家の人ではなく、ただの通りすがりの散歩人だとすれば、よほどそのバラが気に入って、欲しい理由があるのだろう。連れ合いに届けたいのだろうか。そのお婆さんは病床にいるんだろうか、もしかしたらもうお墓の中だろうか。傷だらけの牛乳瓶に大事に挿される一輪のバラを思う。そう、一輪だけがいい。あるいは既に枯らしてしまったお婆さんのバラの代わりに、庭に挿し木をしたいのかもしれない。などなど、勝手に考える。

 

 たとえ花泥棒だとしても、その動機には愛があって欲しいのだ。

 

 さて別の日、というのは今朝のことなのだが、その家の奥様らしき人がバラの枝を切っているのを見た。小紋の着物を着て、髪を上品にまとめた50代くらいの、お花かお茶の先生のような女性だ。 その姿で高枝切り鋏を器用に使い、手ずからバラの枝を落としていた。通りに向かって溢れた件のバラではなく、門から階段を登ったところにある庭の、高く伸びた赤いつるバラの枝だ。薄曇りの朝の庭に、遠目にも凛としたその姿を見て思った。あの男性が愛でていたのは、バラではなかったのかもしれない。

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乗せてくれちゃう

2018/ 05/ 16 (水)

 駅から出るとバス停が気になる。何人かの人が並んでいて、今にもバスがやってきそうな気配がある。でも買い物もして帰りたい。買い物をしたら荷物が増えるのでなおさらバスに乗りたくなるだろうけれど、まあ、運良く別のバスが来たら乗ればいいやと、スーパーに足を向ける。

 

 家まで歩いたって 10分ちょいだ。往きはいつも当たり前のように歩いている。帰りはほんの少しの上り坂が気になってついバスを使うけれど、本当は歩いた方が健康のためにもいいのだ。

 

 バスの時刻表は見ない。適当にのんびりと買い物をして、ちょっと重い袋を下げて店を出た。バスのことは忘れていたが、バスが停まっているのが目に入る。乗客は既に乗り終えていて、今にも発車しそうだ。道路を渡り、別系統の乗り場を越え、ぽっかり口を開けたバスの横腹を目指す。ちょっと走る。走りながら考えている。

 

 べつに、私は乗らなくてもいいんだよ。歩いたっていいんだよ。むしろ歩いた方がいいんだよ。間に合ったら、乗ろうと思ってるだけだから、さっさと行っちゃってもいいんだよ。

 

 その心の声が聞こえたかのように、あと5,6歩というところでプシューッとドアが閉まった。乗り遅れた人がよくやるように、すっと気持ちを切り替えて「乗らなくたっていいんだもんねー」と別の方向に歩き出そうとした。するとまた、プシューッと言ってドアが開いた。私の為に開けてくれたのだ。「ありがとうございます!」と言いながら飛び乗った。

 

 必死になって乗って、あっと言う間に降りる。運転手さんも乗せてあげた甲斐がないかもしれない。

 

 ……ということが、この一週間に2度もあった。2度もドアを開けていただき、「ありがとうございます!」と、飛び乗ったのだ。(もちろん、運転手さんは別の人だろうけど)

 

 私が「ありがとうございます」と言うべきは、本当は、バスが行っちゃってくれた時だよなあ。

 もっと歩かなきゃ。

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その気で登る

2018/ 05/ 14 (月)

 土曜日に、ちょいとプライドが傷ついた。私がB先生経由で打診されて受けたA先生からの依頼を、B先生が他の人に向かって、「サクライは取るに足りない仕事を受けた」かのように表現したのだ。実際、難しい内容ではないけれど、A先生から是非にと頼まれてはりきっていた矢先だ。B先生だって「サクライさんならできるわよ」と励ましてくれていたのに、なんだ、私はおだてられて、いいように使われているだけなのか? と、急につまらなくなった。

 

 登る価値のない木に登って降りられなくなった猫みたいに、嗤われた気がしたのである。みゃーお。

 

 けれども、そのことをここに書こうと考えていたら、だんだんと「別に気にすることじゃないじゃん、ふふふん」と思えてきた。B先生が言った一言から、A先生が言っていないことまで想像しても仕方がない。裏を読んだら賢くて、額面通りに受け取っていたらお人好し、とは限らない。ぜーんぶ私の想像でしかないんだから。それに、B先生が「取るに足りないこと」のように言ってくれたおかげで、他の人の余計な関心を反らすことができた、ともいえる。もしかしたらわざとそう言っておいてくれたのかもしれない。(この説を思いついたら、俄然その通りな気がしてきたのはやはりお人好しだからか?)

 

 いいじゃん、良い方に解釈して頑張っちゃって、誰かから見たらお人好しの馬鹿だったとしても、私にとって何ら実質的な「損」があるわけではない。うん、全くもって「損」ではない。

 

 どんどん木に登って、うんと高い所からの景色を見てやるわ、ふふふん、……である。

 

 むかしはこの辺りの切り替えができずにいつまでも悶々とした。今は、いいように考えるのが少しは上手くなったのかもしれない。悶々とする気力も体力もなくなり、図々しくなった気もする。プライドは隠して守る方が楽だ。

 

 おだてであろうがなんだろうが、相手の思惑よりも高いところまで登ってやればいいのであーる。さて、爪を研いでおこう。

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