仕方ないから

2018/ 07/ 17 (火)

 大きくはっきりと声を出せるようになりたいと参加していたマチさん(60代後半?)は、半年間の講座の後も、自主ボランティアに向けて練習を続けている。ただ、マチさんの場合は声だけでなく、視力があまり良くないことも問題だった。読むべき台本の文字がよく見えないのだ。それでも、ご自分でテキストを拡大コピーして頑張ってきたマチさんなのだが、見学に行ったボランティア先の会場の、照明が暗いことにまた自信をなくした。明かりが少ないと、大きな文字でも見えにくいらしい。

 

 そうして先日、初めての本番の日を迎えた。マチさんの所属するグループ、10数人のメンバーが、児童らを前にして弓なりに並ぶ。皆が同じ本を手にしている中、マチさんだけはいつものように、拡大コピーしたA4サイズの用紙を持っている。

「むかーしむかし」と、物語がはじまる。

 

 緊張もあってか、皆さんいつも以上に本にかじりついて「読んで」いる。本当は、短いセンテンスや呼びかけくらいは本を見ず、観客に語りかけて欲しいのだが、読んでいるから、声は台本に吸い込まれがちだ。やがて、マチさんの番が来た。少し長いセリフだ。マチさんは大きく息を吸いながら一歩前に出る。左手にはコピー用紙。でも、マチさんは一切それを見ずに、子どもらの方を見て語り始めた。

 

 うわぁ、暗記したんですね! と、思わず声が出そうになる私。

 

 台本を見ないマチさんの目は、子どもたちそれぞれの顔を見ている。すると、彼らも真剣にマチさんを見て聞く。その目は、他の人が語っているときよりも輝いているように見える。お世辞にも、聞こえやすい声ではないのだけれど、自分を見て話してくれる相手に、人はより惹かれるものだろう。

 

 終わった後で、「覚えてしまったんですね!」と声をかけると、「だって、仕方がないですもん」と、マチさんは照れくさそうに笑いながら言った。見えないのが心配なら、覚えるしかないと頑張ったそうだ。 教室で、「時々は本から目を離しましょう」と言われても、なかなか皆さん、見ないで言う勇気が持てない。間違えたくないし、忘れるのも怖い。そもそも朗読なんだから本を見て読んでいいでしょうというところがある。でも、マチさんは「覚えるより仕方がないから」覚えてしまった。「仕方がない」という状況は、なかなかに侮れない。

 

 やれテキストの文字が小さい、見えにくい聞こえにくいという苦情や、主催する行政に対する不平不満を口にする人は、いつでも一定数いる。言っていることは間違っていなくても、今すぐ対処できないこともあって困るのだが、だいたいそういう方は、言うだけ言って途中で来なくなる傾向がある。本当に「やりたい!」という気持ちを持っているマチさんのような人は、言うだけでなく自らも工夫してくださるので、こちらもなんとかして差し上げたくなるというのが人情というもの。

 

 ま、とにかく、いろんな方がいらっしゃる。本ばかり見ていない方が、観客とアイコンタクトできて楽しいし、声もしっかり前に出やすいと、それぞれが気づいてくれるのが一番なんだけど……「覚えたくても覚えられない。仕方がないから本を見て読むんだ。仕方ないから」ということも、あるに違いない。

 

 

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なつかしいね

2018/ 07/ 14 (土)

 気づけば朝からずっとエアコンの効いた室内にいた。気づいてしまうと急に息苦しいような、何かに申し訳ないような、そんな気がしてきて、とりあえず一旦スイッチを切ってみた。窓を大きく開ければ風が通り、まだ生温かいながらも夕暮れていく匂いがする。

 遠慮がちなセミの声と、遠くで鳴っている踏切の音。窓を締め切っていたときよりも「静か」と感じる。これに蚊取り線香の匂いがあれば、子供の頃の夏の夕方みたいだと思う。

 でも、ここで蚊取り線香を買ってきて焚いたところで、100%昭和の夏が再現されるわけではない。チューニングが狂うトランジスターラジオの雑音だとか、黒電話の呼び出し音、チャンネルを回す音、空き地でゴミを燃やす匂い、隣近所の夕餉の匂い……次々と「足したいもの」を思いつきそうだ。

 一度に全ては思い出さない。

 だれかと「なつかしいね」と言い合うとき、それぞれの記憶は新しい物語をつくりはじめる。私の記憶にあってあなたにないもの、あなたが覚えていて私が忘れていること、もしかしたら同一ではないかもしれない「ある時点」を共に思い出しながら、ひとつふたつと記憶は足されていく。そうしながら実は、いつか過去になる「今」を慈しんでいるんだろう。

 なつかしいねと、話したい。

 

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心はいくつ

2018/ 07/ 11 (水)

 何日も吹いていた強い風が止んだ頃から、ミンミンゼミが鳴き始めた。空は青く雲は夏の形をしている。昨日は教室の元気な年配者を区の公民館から児童館までお連れした。ボランティアのボランティアみたいなもの。15時を過ぎてもまだ暑い中、ぞろぞろと日陰を選びながら歩いた。日傘をさして黙々と歩くも、下からの照り返しがとにかくきつい。水害に遭われた方々のことを思えば「こんな暑さくらい我慢しなきゃね」と口々に言い合うのだが、いやいや、あんまり我慢なんかしてはいけない。とはいえ、皆さん暑さには慣れているようで、一番バテていたのは私かもしれない。

 いよいよ皆が練習の成果を発表するというとき、紹介の中で「こんな気持の人もいるし、こんな風に思う人もいる……」というような話を私がすると、後ろの方で聞いていた小学5年生くらいの女の子が、「第二の心!」と言った。時間の制限があるのでその場は「そうだね」と流したけれど、「第二の心」って、本当はなに? 学校で学ぶんだろうか。

 帰りの電車の中でスマホで検索すると、明治生まれの数学者の話が出てきた。人には第一の心と第二の心があり、第二の心というのは情緒のようなもの。それを理解できるのは東洋人だけだ……というような話で、なかなか難しい。これのことを少女が言っていたとは考えにくい。表と裏とか、本音と建前というようなことなんだろうか。何にしても、少女が「第二の心!」と口にする姿は新鮮だった。

 第一とか第二どころか、人は一度にいろいろなことを思っている……ということを書こうと思ったけれど、いろいろあるのは、それを表す「ことば」なのかもしれない。伝えたいことは「愛」に端を発しているのに、言葉を選び間違うと「愛」ではなく、例えば嫌味のように伝わってしまう。自分では正しく選んだつもりだって、相手の反応を見るまではまっすぐ伝わったかわからないし、その相手の反応である「言葉」だって、どこまでその人の気持ちを正しく表しているかわからない。嫌味と取られた? という私の受け取り方が正しいとも限らない。

 まあ、あんまり気にしないことにしよう。と、思うことが今日もありましたとさ。

 

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